part 2:探検の門出及び行路

 いよいよ出発の時になると「彼は死にに行くのだ、馬鹿だ、突飛だ、気狂いだ」と慧海を止めるものが後をたたなかった。出発前夜の6月24日も、大阪の滞在地に慧海を訪ねる者があった。「これから衆生済度をする者が、わざわざ死にに行く必要はない」と熱心に勧めたが、「向こうに行ったら必ず死ぬわけでもない。できる限り良い方法を尽すまで」と慧海の決心は固い。その後も別れを惜しむ信者が次々訪れた。

 翌25日に大阪を出て、26日に慧海は神戸の波止場から和泉丸で海に出た。集まった朋友諸氏はボートから帽子やハンカチを振り、西に向かう舟を見送った。慧海は舟から見える山々に別れを告げ、ただ己の心のみを友として進んだ。

 門司を過ぎ、玄界灘、東シナ海を経てホンコンに着く頃になると、慧海と船員はすっかり親しくなった。彼らは慧海の法話を喜んだ。ホンコンから乗り込んできたタムソンという英国人は日本語が達者で、熱心なキリスト教信者でもあったから、慧海と大いに宗教談義を楽しんだ。

 7月12日にシンガポール入りし、3日後に日本領事館を訪ねると、領事は慧海に「軍人の福島安正さえ入国を諦めたのだから入国は困難だと」告げた。もちろん慧海は「乞食になってでも行く」と気にも留めなかった。

 18日は、慧海が一命を取り留めた事件があった。宿で説法をしていた慧海は、主人のはからいで宿泊中は一番風呂に入れてもらっていた。この日も係が呼びに来たが、経典を読んでいてなぜか腰が上がらなかった。ぐずぐずしていると、地震かと思うほどの轟音が響いた。宿の2階にあった風呂が倒壊して落ちたのだという。

 シンガポールの天井高は3メートルほどもある。慧海が呼んでも来ないので、風呂には日本人の宿泊女性が入浴しており、大けがをしたそうだ。もし慧海が呼ばれて風呂に行っていたら、チベット行きもままならなかっただろう。こうした幸運はチベットに入ってからもたびたび起こった。

 翌朝、慧海はシンガポールから日英国汽船に乗り、マレーシアのペナン港を経て、5日目にインドのカルカッタに到着した。仏教徒の摩訶菩提会の世話になっていると、幹事がチベット語と英語の大辞典を編纂する人を紹介してくれた。サラット・チャンドラ・ダース居士といい、ダージリン県の別荘に住んでいた。

 8月2日、慧海はカルカッタから汽車で北に向かった。川を渡り、椰子の畑や青田の間を進み、大ホタルと遊び、翌3日の朝にはシリグリ駅で小さな山汽車に乗り替えた。汽車は林を蛇行し、ヒマヤラの山道を200キロほど登り、夕方5時にダージリン駅に到着した。

 カルカッタから1500キロの道のりだった。慧海は駅から「ダンリー」という山かごに乗って、サラット居士の別荘へ向かった。

Illustration:Tomokazu Murakami

トリ

山を眺めるのは好きだが、登るのは年に1回で十分と思っているインドア派。仏教が好きすぎて、河口慧海の「チベット旅行記」を現代語訳している。美味しい日本酒と魚もこよなく愛している。

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